井戸・ノモンハン・ねじまき鳥

「ねじまき鳥クロニクル」
前に読んでいるはずだけど、全然覚えてませんでした。
よって、すごく新鮮に、わくわくしながら読めました。おバカの利点です。

第一部だけ表紙が違うのは、図書館なので致し方なしです。

読み返して、わたしの村上春樹作品に対する「井戸」のイメージはこの作品からだったのかなと思いました。
「井戸に下りる」という表現は他作品でも何度か出てくるけど、実際に登場人物が井戸に入るシーンがある長編作品は、これだけだったと記憶しています。

井戸に下りることによって真の意味での「孤独」となり、孤独の中で自分を突き詰め、別の世界(その世界は物質的なものではなく、自分の中の新たな可能性のようなもの)の新たな扉を開ける、という意味なのかなあと思っています。

間宮中尉はノモンハンで「皮剥ボリス」による残酷な死を目の当たりにした後、井戸の底で様々なものを失い、肉体的には生きて日本に帰れたものの、空虚な人生を送ることになります。
おそらく何かによってその「機会」を与えられたけれど、そこへ辿り着くことができなかった、という「前例」を表しているのだと思います。

間宮中尉は、本田伍長から前日の晩に「生きて日本へ帰れる」という旨を伝えられています。そのせいで、どこか心に余裕があったのかもしれません。
そこに辿り着けた主人公と異なり、必死さや集中力が足りなかったのかな。どうなんだろう。

主人公は、出て行った妻・クミコをどうにかして取り戻したい。これを乗り越えないと、クミコを捉えて離さない「悪」から逃れることができない。そして、ここでクミコを失ってしまったら、自分の中から大事な何かが失われてしまうという、無意識の危機感があったんだと思います。


「ねじまき鳥クロニクル」は、失いかけて失うまいと踠き、戦う話です。
これまでの村上春樹作品は、すでに失ってしまって取り戻せない、喪失感満載のパターンが多いけど、この作品を境に、失わないパターンが増えてくるんですよね。次の長編「スプートニクの恋人」もそうですけど。

村上春樹作品は、小説というより哲学書だなあと常々思うけど、ねじまき鳥〜は特に内省とかアイデンティティの揺らぎとか、そういう精神面との対峙色が濃いなあと、読み返して思いました。自分でも何言ってるかわかりません。笑

ていうか、ねじまき鳥ってなんだったんでしょうね。
わたしは勝手に、手塚治虫の「火の鳥」を想像しながら読み進めてました。あれもクロニクル(年代記)みたいなものですもんね。




プロフィール

やすなり近影

やすなりゆきよ(yukiyoYasunari)

海潜(うみもぐ)イラストレーター。

趣味のスキューバダイビング繋がりで、イラストやデザインのお仕事をいただいたりしています。

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